【新京成線延伸計画】: ■地図を眺めると歴史が見える
松戸駅と京成津田沼駅間の26.5㎞を結ぶ新京成線にかつて、松戸駅から江戸川を渡って柴又駅まで延伸する計画がありました。松戸駅から千葉大園芸学部の横を通り、国道6号をまたいで矢切方面に、線路が敷かれる予定だった区間が不自然な曲線の道路として残っています。
東京方面にある歩道橋から見る松戸駅。右側が新京成線のホーム。
松戸市民会館近くの地下道の脇を線路沿いに。
道なりに左へ。大正寺の横を通って地下道をまたぎます。
道がないので戸定邸へ上る坂道を上り、戸定邸の門を右に曲がります。
右の道を道なりに下ります。
下る途中で線路沿いに出て、松戸駅方面を振り返る。
右手前の線路は電車区引込線。真っすぐ進めばJR東日本松戸車両センター。
歩道橋の先を左折。
正面は千葉大園芸学部の校門。
傍らに「維新の志士 従五位 竹内啓先生の墓」。尊王攘夷の志で挙兵し処刑された幕末の志士。
千葉大園芸学部校門前を道なりに右に曲がります。
線路が敷設される感じが何となく想像できる通り。
道幅が広くなっているこの辺が松戸駅から一つ目の駅だったのかしら?
道が二手に分かれ、左は千葉大園芸学部正門。ここを右に下って行きます。
階段を上がり国道6号に出る。左に松戸警察署が見えます。
国道6号松戸バイパス開通が昭和36年(1961)で新京成線延伸計画と時期が重なるが、どう交差させる予定だったのでしょう?
一旦横断歩道を渡ってから、さっきの階段から国道6号と交差するかたちでガソリンスタンド脇を直進。
道は住宅地を通って不自然に右に弧を描きます。柴又を目指して。
この先のリブレ京成まで複数の道路が並行しています。線路と側道の用地だったのでしょう。
左手に鴻之台公園。小山台町会の方々が整備をされている花壇。心癒されます。
大通りに出ました。振り返ると一本となりの通りにリブレ京成。
先ほどより少し狭くなった一方通行を歩きます。左手に緑地。
住宅地を進み県道1号市川松戸線(松戸街道)にぶつかりました。道はここまで。
この先「矢切の渡し」付近を通って江戸川を渡り柴又駅まで結ばれる計画でした。
旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した線路を、第二次世界大戦後に民間に払い下げてサービスが始まった新京成線。高度成長期を象徴する大型の住宅団地(前原団地、高根台団地、常盤平団地)が沿線に立て続けに建設され、数万人が移り住んできました。
当然、問題となったのは都心までへの通勤ルート。松戸駅で乗り換える常磐線も、ラッシュ時の混雑はいまの比ではありませんでした。
そこで考えられたのが今回の延伸計画でした。松戸駅から柴又駅まで全4.7㎞の建設計画。路線免許を1956年(昭和31年)に申請、1962年(昭和37年)に免許がおりました。当時、京成線は押上駅から有楽町への新線構想があり、一気に東京都心へ直通させる計画でもあったようです。
しかし、千葉大園芸学部や柴又駅周辺地域の反対や用地買収の行き詰まり、常磐線が複々線化したことによる混雑の緩和などにより、延伸計画は実現せずに1971年(昭和46年)に免許が失効となりました。入れ替わるように北総線の計画が持ち上がり、松戸を通る区間は1991年(平成3年)に開通。現在に至っています。